昨日からちょっと"1度、奈落の底に突き落とせ"
"いま伝えるべき"とやってきていたものを、やっと言葉に置き換えることができました。
今日はそんな内容です。
人のために何かしたいと思う人は多いです。
思いやり、奉仕、慈悲深い、高潔な精神です。
それが純粋に誰かのためであり
何か出来る力が自分にあるなら、
それはその通りです。
でもその力がないならそれは偽善です。
人のためという名の、
自分の居場所を作るため
感謝されるためや役立っている自分でありたいため、
自分のやり甲斐や、生き甲斐を作るため
それは自分勝手なエゴなる欲求。
純粋なる思いやり、奉仕、慈悲深さとは程遠いものです。
それでも自分の弱さを隠すため
自分を護るため
自分を正当化するため
あくまで"人のため"と口にされ
それが本当は自分のためとは思ってもいない
気付いてない方は多いです。
本当の意味で人のために何か出来るのは
自分を生きている人です。
自分を生きている人は何をしていても
"人のために"など思わなくても
誰かを心地よくさせたり
誰かを勇気付けたり
誰かを刺激したり
する事すべてが人のために自然となっていきます。
本当に人のために何かしたいなら
道のゴミを拾うだけでも
それはすでに人のためになることです。
それで満足出来ないなら
それは承認欲求があるからです。
自分に自信がない
自己価値が低い
やりたいことが分からない
自分を生きれない
だからせめて人のために何かしたい
そうする事で変われるかもしれない。
本当は、
自分の欲求を満たすために人のために何かしたい
のではないでしょうか?
このエゴからの欲求が悪いわけでなく、それでも良いのです。
でもそれに気付けているか?認めた上での"人のために"かどうかの違いは大きいです。
知れば知るほどに、何も知らない自分に気付きます。
癒せば癒すほどに、癒されてない自分に気付きます。
手放せば手放すほどに、手放せてない自分に気付きます。
道への歩みを進めるほどに、まだ入り口にも到達できてない自分に気付きます。
誰かを癒したい人は癒されたい人
何かを教えたい・伝えたい人は、教わりたい・伝えられたい人
人のためは自分のため
それで良いのです。
エゴからの欲求で、純粋ではなく不純な動機で始めたとしても
ここに気付く人、認められる人
または気付いて認めてやれる人は
決して傲慢になることはない
良いヒーラー
良いティーチャー
良いセラピストなどで在れると思います。
自分の弱さを認められるから
人は強くなれるのです。
"私は本当に純粋なる奉仕の精神で"
そう思いたいかもしれませんが一度、本当にそうなのかハートから感じてみて下さい。
もちろん私も同じですよ。
よくもぬけぬけと"人のために"なんて言えてたなと、どの口がそんな事を言えてたのかと
なんて傲慢で愚かで恥知らずだったのかと振り返ると思います(笑)
でも自分で気付けたこと、気付かされたこと
奈落の底に落ちるような気付きと感覚を何度も味わいましたが
それが今ではギフトだと感じています。
この言葉さえもまたいつかのタイミングで振り返った時に"なんて愚かな私"と感じるかもしれません。
でもそう感じられるのは成長した証拠。
愚かだから出来ることがあります。
愚かでないと出来ないことがあります。
愚かである事を恐れないで下さい。
愛のない力は暴君
力のない愛は偽善
その両方のバランスもたくさんの経験(特に失敗という名の)の中で取れる自分になれます。
でも失敗を恐れて何もしなければ
何も始まりません。
その為にも愚か(計算なし)であって下さい。