昨日、セッションの後で、『天気の子』を観てきました。
犠牲者になること
犠牲者意識
そして殉教者意識の終わりに気付かせるような映画でした。
けれど、私は観終わった後2時間くらい
怒りと悲しみをずっと感じていました。
消化し、昇華するのに時間がかかりました。
それは私のものでもあり
集合意識のものでもある
怒りと悲しみでした。
具体的に映画の内容について綴るわけではないですが、これから観る方や楽しみにされている方は
ここから先は読まない方が良いかもしれません。
湧き上がってきた声は、
私のときは、誰も助けてくれなかった。。。
誰にも護ってもらえなかった。。。でした。
思い出した記憶1
濁って荒れ狂う土色の川
私を見て申し訳なさそうに拝み、哀れみの目で私を見る人々
私の命は今日で終わり
あなた達の命は明日も続く
なぜ私なの?
深く呼吸をして、その言葉を飲み込み
目を閉じ唇を固く結んだ。
人には役目や役割があり
生贄、人柱、色んな呼び方はあるけれど
今回、私は自分の命を捧げて
龍神の怒りをおさめるのが役割。
別れの盃を口にして
勇気を振り絞って濁流に近付くと
濁流は私を飲み込んでいく。
けれど私の犠牲は失敗に終わる。
無駄死にでした。
龍神の怒りはおさまらず、私では何がいけなかったのか、集会の中で、ああでもない、こうでもないと語られる。
そして次なる生贄が決まる。
記憶2
稲妻と嵐、高波の時は、
役割を担う選ばれし者として多くの中から選ばれました。
それがどんなに大切な役割か名誉なことなのかを語られ
精神を落ち着かせ、そして麻痺させるために
ずっと香が焚かれ続ける。
綺麗に身支度を整えられ
選ばれしものとして平静を装いながらも心の中で思う
そんなに名誉なことなら誰か変わってほしい
どうして私なのか と。
稲妻の中、崖へと自ら歩いていく
波が、早くお前の命をよこせと迎えに来る。
巫女として神のために祈り、尽くした人生の中で
残らずその人生の、命のすべてを捧げよと神は私に告げる。
これはそれだけ神に愛され、選ばれた存在だからと本当に言えるのだろうか?
記憶3
戦時中の洞窟の中
もう周りは敵に包囲されている
まだ6歳くらいの少年だった自分は白旗を振りながら1番に洞窟を出る役割として選ばれた。
いつ撃たれるか分からない中、ゆっくりと降伏を示す白旗を持ち洞窟から出る。
緊張で体は震え、冷や汗が出る。
目を閉じたまま、少しづつ顔をそして体を出し、両手を上げる。
敵は私を見て武器を持たない民間人と判断し、ゆっくり近づいて来る
その瞬間に洞窟の中にいた仲間のはずの兵隊は敵へと発砲し、
私は銃撃戦の間に立たされ
ただ利用されただけなのだと知る。
敵からも仲間からも撃たれる。
映画の途中から、後から、浮上してきて見えたのはその3つの過去世でした。
他にも生き埋めにされたり
縄で繋がれて森の中に置き去りにされたり
生き血を捧げたり
たくさんの生贄や捧げものとなったこともあると思います。
私も。
みなさんも。
人であった人は、生贄という"もの"になった瞬間から、人はその"人"を"もの"として扱い始める。
反対に自分が犠牲にならずにすんで密かに喜んだり
その誰かを"もの"として扱う側だったこと
悲しみや痛みと共に送り出さなければならなかったり、見護るしかできなかった
そのすべての経験が、もちろんあると思います。
幾多もの人生の中で、決して消えない人間への不信感。
そして"もう裏切られたくない"
そんな想い。
誰もがあるのではないでしょうか?
それでもまた、生まれてきた。
なぜでしょうか?
人を信じるため。
何のために?
自分のために。
私たちは何度も何度も裏切られながらも
それでも信じたいのです。
信じられない
憎しみ
悲しみ
怒り
そのままだと苦しいのは自分なのです。
宇宙は愛そのもの
愛に還れないものは源にも戻れず
取り残されたまま
分離したまま
いつまでもそのままだと苦しいのです。
誰もが愛の本源に還りたい。
生まれてきた意味と
犠牲の終わりの理解の気付きと共に
それでも癒しきれてない
昇華しきれてない
そんな想いの、記憶の、集合意識の癒しと昇華のきっかけとなる映画なのかなと私は感じました。
個人個人と共に、集合意識が変わるとき。
みなさんは何を感じましたか?
そして何を感じるでしょうか?